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「区のおしらせ ちゅうおう」 令和2年2月21日号

区内の文化財

佃島初代名主 佃忠兵衛報恩塔(つくだちゅうべえほうおんとう)

区民文化財No.40名称変更 築地三丁目15番1号

佃島初代名主 佃忠兵衛報恩塔
▲佃島初代名主 佃忠兵衛報恩塔

築地三丁目にある築地本願寺は、元和3年(1617)に浅草御門内の横山町二丁目南側の地で創建されました。しかし、この40年後に発生した明暦3年(1657)の大火で堂宇は焼失し、替地として与えられた木挽町裏(八丁堀)に広がる遠浅の海へと移転しました。
移転の際は、江戸・佃島の直参門徒たちの協力で替地を埋め立て(「築地」の起こり)、万治元年(1658)には早くも仮御堂が建立されました。以後、新開地・築地で再興を遂げた本願寺(移転後「築地御坊」と称し、明治維新後「(本願寺)築地別院」と改称、現在は直轄寺院「築地本願寺」)は、今日に至るまで360年以上の歴史を築いています。
本願寺の築地移転・再興に尽力した佃島の門徒とは、将軍の命で摂津国西成郡佃村・大和田村から江戸に下った漁師たちで、佃島もまた正保元年(1644)に遠浅の海(築地東の海中)を埋め立てて築かれています。なお、島内の地所は、先達を務めた佃村の庄屋・森孫右衛門をはじめ、実弟・九左衛門、従弟(九左衛門の娘婿)・忠兵衛など摂津国からの移住漁師三十数名の割り当て所有となりました。
ところで、築地本願寺の境内には佃島開祖の200年忌(き)に建立した石塔(平成26年9月21日号「森孫右衛門供養塔」で紹介)があり、これまで石塔の法名や銘文は森孫右衛門を示すものと判断されてきました。しかし、佃島名主家伝来の古記録などから「佃島初代名主 佃忠兵衛」の恩徳追慕を目的に建立した報恩塔であることが明らかになりました。実際、年々出府の孫右衛門は本国(摂津国)佃村で没しており、九左衛門は本小田原町で魚問屋(「佃屋」)を開いたため、一族の衆望を担った忠兵衛が佃忠兵衛と名乗って佃島の初代名主役を務めました。特に、初代名主・佃忠兵衛は将軍・幕府の御用漁や佃島の開発とともに、明暦の大火で焼失した本願寺の替地埋め立てと御堂再建に大きく貢献しました。
なお、初代名主・佃忠兵衛の遺徳を称えた報恩塔の建立者は、佃島10代名主・森幸右衛門勝鎮(もりこうえもんかつしげ)(森九左衛門家が絶家のため7代目から家康下賜とされる「森」を継承)と親族の佃宇右衛門寛敏であることも判明しました。この報恩塔は、忠兵衛の法名「篤行院釋久西居士」と没年「寛文二年壬寅四月四日享年九十有四歳」、そして開祖の遺徳や同家が代々名主役を奉職してきた歴史を今日に伝えています。

中央区総括文化財調査指導員
増山一成

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