資料室
体験記-空襲体験-
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空襲体験
目の前で焼夷弾が炸裂

岸浪 清七(きしなみ せいしち)

 空襲警報のサイレンが鳴れば、私は銭湯を閉めて、班長の役目として地域の人々の避難を促すことをしていた。
 その日も、空襲警報が発令されて、風呂に入っている人に「早く出て行って下さい!着物をつけて避難して下さい!」と声をかけた後、私は、警防団の仕事に出て行ってしまった。
 地域の人たちも避難させ終えて、やっと自分の家の防空壕に入ろうと家に戻ると、風呂場の方で「チャポチョポ」と音がする。何か、と思って風呂場を覗くと、女風呂で洗濯をしている婦人がいた。
 「何をやってんだ! 早く家に帰って避難の用意をしろ!」と言ったが、反面、女の人は凄いなァー、自分の命より明日の子供の着る物の心配をしているのだナーとつくづく感心させられ、あれを母性愛というのかと思った。
 私の家は軍の近くということもあったためか、どうにか焼け残ったが、あの日は、焼夷弾の落ちる量も、火の勢いも、日頃のものとは比べようもなかったような気がして「ついに、だめかな」と何度も感じた。
 私の一番最初の空襲体験は、昭和19年11月29日のことであった。
 私は、防空召集で二重橋の仮兵舎まで急いで行く最中、日本橋白木屋(現 東急デパート)の前を通ったところ、焼夷弾が目の前に落ちてきた。「ヒューン」「バーン」というような音ともに、花火のような火が広がった。
 私は驚いて、自転車を放り出し、地下鉄の階段のところへ避難した。焼夷弾とはいえ、空から物が落ちてきて、えらい勢いで火が燃え広がるのを初めて目の当たりにしたのだから、印象はたいへん強いものだった。
 話は前後するが、3月10日以降、家を焼け出されてしまった人たちが大勢いたせいか、私の銭湯は、連日、芋を洗うような混み方だった。
 その後の空襲にも、幸いにして我が家は焼かれることなく、私は家で終戦を向かえた。
 奇しくもその日、区のお偉いさんたちや軍の人が私の銭湯を会場にして集まり、「来る本土決戦の為の義勇軍結成式」があった。その式が始まる時間に玉音放送がかかり、式は一気に涙の乾杯になってしまったことを覚えている。

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