映像ライブラリー
語り継ぐ戦争の記憶「体験者の声」
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タイトル 富沢町・空襲と復興 名前 柴田 豊

 昭和18年の後半から活気が全然なかったです。みんな戦争とか工場へ動員で出ましたから。そういう状況の中で男性はほとんどいなくて女の方ばかり。
 このNTTの前の裏のところが芸者屋さんの置屋さんでした。だけど、そういう女性たちはみんな勤労動員で徴用されて、お年寄りばかりだから、防火訓練といったって途中で抜けしまう。

3月10日 東京大空襲
 
ゲートル巻いて、靴もいわゆる軍靴でしたから、学生服で帽子被って、いつも空襲警報が鳴ると支度しました。ご存じのように焼夷弾は大きくて、空中でバーッと30発か40発か。だから、見てるとバーと花火じゃないですけど、それがみんな落ちてくる。家は3階建ての木造家屋でしたから、うちの屋上にも一発か二発落ちましたけど、みんな消火のための樽、酒樽を1階と屋根に置いておいたので、焼夷弾が家にも落ちたけど僕が消しました。
 いや、戦争中は怖いなんて思いませんでした。恐怖心は無かったですね。当時、日本は勝つなんて思ってましたから、そういう洗脳をされてましたから、自分たちは責任を持って、消火活動をするのは、もう中学生の当たり前の義務だと思ってました。だけど、そこの関口さんって、今、料理屋さんやってるところに塊がドーンと落ちて、NTTの前が芸者屋さんで徴用されて空き屋だったから、消す人がいなくてみんな燃えてしまった。
 それで類焼してきたから降りて、自分の家の木造家屋が燃えて、倒れるのを見て、今でも鮮明に覚えています。自転車とお米があったのに、米びつと飯ごうだけ、中へお米入れないで。
 人形町の方見たら人形町は燃えていなかったです。すでに、戦車で今の浜田屋さんあたりは全部潰されて燃えていないから、人形町へ逃げたんです。その時B29が200メートルから400メートルの低空飛行で搭乗員が見えたんですから。それだけ低空だったんです。もう、うろうろうろうろ歩いていた。その時は向こうはずっと焼け野原でしたし、材木がみんな炭みたいになって、燃えてました。だけど水道は出ました。水道管だけ残っていて、蛇口がついてましたから、バケツに入れて、みんな水をかけて。
 姉が泊まるところがないから、とりあえずここに穴掘って。その頃防空壕を家の地下などに掘っていたから、中学生でもみんな覚えてますから、スコップで一畳半くらいの穴を掘って、そこへ紙を敷いて、燃えない家に行ってトタンをもらってきて、その穴の上に雨戸を一枚かぶせて、新聞紙をかけて一晩か二晩寝ました。
 寒かったですよ。当時3月というと、今と同じように。その翌日はおにぎりをもらったのかな、誰かから。一個でしたけど、それで一日過ごしました。

終戦後の町の様子
 
母が千葉県に疎開してたから、千葉県に帰りました。それで一月か二月いて、 それで、また母がここへバラックという木造の家を建てて、あの終戦から、一年以内に建てたんですよ。早かったですよ。この町内で5番目ぐらいだったかな。風が吹くと屋根が飛んじゃう。みんな戦後になったから、戦前から住んでいる人はここの所帯数が600所帯くらいあったんじゃないですか。戻ってきたのが50所帯なかったです。一割なかった。新しい方も土地をお買いになって入ってきた。だから、顔見知りの方って数えるほどしかいなくて、新しく入ってきた方を小林さんって方がリーダーになって、みんなを集めて、月に2〜3回、各戸に集まって、今、会社勤めてどうなのとか、学校行ってどうなのかとか、そういうような世間話をしていました。
 「あゆみ」って、青年部の雑誌作ろうということになって、色んな会合が増えてきました。

盆踊り大会(復興祭)
 
町内の団結と、そういうひとつのコミュニケーションを良くしていくということと、みなさん楽しく、懇親のために盆踊りしましょうということでした。理由なんかないですよ。

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