埋桝及び木樋(うめますおよびもくひ)

掲載日:2023年7月19日

ページID:4348

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埋桝及び木樋の写真
埋桝及び木樋

種別

区民有形文化財考古資料

所在地

新富一丁目13番14号 郷土資料館

員数

4点

年代

江戸時代

登録年月日

平成4年4月1日

登録基準

〔5〕

  • イ、各時代の遺物等で、学術的価値のあるもの
  • ロ、区の歴史上重要と認められるもの

広報紙コラム「区内の文化財」より(平成25年1月21日号掲載)

“良質な水の確保”は、今も昔も私たちの生活の根幹をなすものです。日本初の近代水道(川の水などの沈殿・濾過を行い、鉄管を通す有圧の安定配水)は、明治20年(1887)に横浜で創設されました。東京の近代水道は、明治32年(1899)末頃までに当時の東京市(現在の中央区にあたる京橋区・日本橋区を含む15区)のほぼ全域に通水されました。そして明治34年、これまで江戸・東京の人々が利用してきた上水道(旧水道)の市内給水が廃止されました。近代的な水道施設の建設以前に利用されてきた上水とは、どのようなものだったのでしょうか。
江戸時代初期、全国各地で城下町の建設が展開されるとともに、都市化に伴う飲料水の安定確保や農業用水の供給などの必要性から水道の敷設が盛んに行われました。当初は池泉や湧水などから供給していたとされる江戸の地に、最も早く開かれたのは「神田上水」(創始は天正年間・寛永年間など諸説あり)でした。
井の頭池を主水源とする神田上水は、水源から武蔵野の湧水(善福寺池・妙正寺池など)を合せながら小石川の関口(現在の文京区関口)まで開渠で導水し、関口の大洗堰で分水した上水は水戸藩上屋敷内(現在の文京区後楽一丁目・春日一丁目)を通って石樋で神田川に至り、神田川を懸樋(川の上を横断して掛ける樋)で渡した後は暗渠(地中に埋めた樋を使用)で給水されました。給水区域は、下谷・浅草を除く江戸下町の北半分(神田川を北限とし南は京橋川まで、西は大手町から一ツ橋外まで、東は隅田川以西の永代橋まで)に及んでいます。
また、江戸最大の上水であった「玉川上水」(承応3年(1654)完成)は、多摩郡羽村の堰から多摩川の水を取り入れ、四谷大木戸(現在の新宿区四谷)までの42.7キロを開渠で導水し、市街に入ってからは暗渠で給水されました。江戸城内をはじめ、主に市街南西部一帯(四谷・麹町・赤坂・芝・京橋・築地・八丁堀など)に及ぶ自然流下式の上水でした。なお、青山・三田・本所・千川の四上水も順次開かれ、給水が行われました(享保7年(1722)廃止)。
さて、今回の文化財は、神田上水の配水構造や技術の一端がうかがえる区内で出土した江戸時代の「木樋」と「埋桝」です。出土地点は、「日本橋」の北詰にあたる室町一丁目交差点付近(日本橋室町一丁目8番先)の地下約2メートルで、昭和50年(1975)に行われた地下鉄半蔵門線の建設工事中に発見されました。
木樋とは、給水のために地下に埋設された樋管のことです。出土した上水木樋は、厚さ8センチ前後の板を船釘で管状(断面形態は四角)に固定したもので、発見時には板の継ぎ目に槙肌(ヒノキやマキの皮を砕いて繊維としたもの)を充填して漏水対策がとられていました。また、同時に出土した埋桝は、樋管(木樋)の屈折点や分岐点に埋設された装置で、発見時には埋桝の北・東・南側の各面に木樋が接続していました。構造は、厚さ9センチ前後の側板(4から5枚の板を船釘でつないだ側面板)四面と底板(船釘でつないだ四枚板)とで組み立てた方形の桝(約1.3メートル四方・高さ約1.6メートル)です。
江戸時代の樋線図(神田上水の配水経路を示した図)などを基に配水経路を分析すると、上水は埋桝北面の木樋を通って埋桝に給水(北の駿河町方面からの水)され、東面の木樋への配水(江戸橋方面への水)と南面の木樋への配水(日本橋魚市場方面への水)が行われていたことがわかります。市街地における江戸の上水は、埋設された樋や桝を組み合わせて水道網が形成されていました。江戸っ子が産湯に使った自慢の水道は、こうした上水技術によって運ばれてきたわけです。
中央区主任文化財調査指導員
増山 一成

お問い合わせ先

教育委員会事務局図書文化財課郷土資料館

〒104-0041 新富一丁目13番14号

電話:03-3551-2167

ファクス:03-3551-2712

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