佃島初代名主 佃忠兵衛報恩塔(つくだじましょだいなぬし つくだちゅうべえほうおんとう)

掲載日:2023年7月19日

ページID:4296

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佃島初代名主 佃忠兵衛報恩塔の画像
佃島初代名主 佃忠兵衛報恩塔

種別

区民有形民俗文化財

所在地

築地三丁目15番1号 築地本願寺

員数

1基

年代

文久元年

登録年月日

平成6年4月1日(「森孫右衛門供養塔」)

名称変更

令和2年2月1日(「佃島初代名主 佃忠兵衛報恩塔」)

登録基準

〔1〕ホ、信仰に用いられるもの(祭祀具、法会具、奉納物、偶像類、呪術用具、社祠等)

広報紙コラム「区内の文化財」より(令和2年2月21日号掲載)

築地三丁目にある築地本願寺は、元和3年(1617)に浅草御門内の横山町二丁目南側の地で創建されました。しかし、この40年後に発生した明暦3年(1657)の大火で堂宇は焼失し、替地として与えられた木挽町裏(八丁堀)に広がる遠浅の海へと移転しました。
移転の際は、江戸・佃島の直参門徒たちの協力で替地を埋め立て(「築地」の起こり)、万治元年(1658)には早くも仮御堂が建立されました。以後、新開地・築地で再興を遂げた本願寺(移転後「築地御坊」と称し、明治維新後「(本願寺)築地別院」と改称、現在は直轄寺院「築地本願寺」)は、今日に至るまで360年以上の歴史を築いています。
本願寺の築地移転・再興に尽力した佃島の門徒とは、将軍の命で摂津国西成郡佃村・大和田村から江戸に下った漁師たちで、佃島もまた正保元年(1644)に遠浅の海(築地東の海中)を埋め立てて築かれています。なお、島内の地所は、先達を務めた佃村の庄屋・森孫右衛門をはじめ、実弟・九左衛門、従弟(九左衛門の娘婿)・忠兵衛など摂津国からの移住漁師三十数名の割り当て所有となりました。
ところで、築地本願寺の境内には佃島開祖の200年忌(き)に建立した石塔(平成26年9月21日号「森孫右衛門供養塔」で紹介)があり、これまで石塔の法名や銘文は森孫右衛門を示すものと判断されてきました。しかし、佃島名主家伝来の古記録などから「佃島初代名主 佃忠兵衛」の恩徳追慕を目的に建立した報恩塔であることが明らかになりました。実際、年々出府の孫右衛門は本国(摂津国)佃村で没しており、九左衛門は本小田原町で魚問屋(「佃屋」)を開いたため、一族の衆望を担った忠兵衛が佃忠兵衛と名乗って佃島の初代名主役を務めました。特に、初代名主・佃忠兵衛は将軍・幕府の御用漁や佃島の開発とともに、明暦の大火で焼失した本願寺の替地埋め立てと御堂再建に大きく貢献しました。
なお、初代名主・佃忠兵衛の遺徳を称えた報恩塔の建立者は、佃島10代名主・森幸右衛門勝鎮(もりこうえもんかつしげ)(森九左衛門家が絶家のため7代目から家康下賜とされる「森」を継承)と親族の佃宇右衛門寛敏であることも判明しました。この報恩塔は、忠兵衛の法名「篤行院釋久西居士」と没年「寛文二年壬寅四月四日享年九十有四歳」、そして開祖の遺徳や同家が代々名主役を奉職してきた歴史を今日に伝えています。
中央区総括文化財調査指導員
増山一成

広報紙コラム「区内の文化財」より(平成26年9月21日号掲載)

築地三丁目に堂宇を構える仏教寺院・築地本願寺は、京都市下京区にある西本願寺(浄土真宗本願寺派本願寺)の直轄寺院です。インド様式の意匠を採り入れた異国情緒漂う本堂や境内を囲う欄楯(大谷石造の塀)は、築地のランドマークにもなっています。
京都・西本願寺の別院として江戸の横山町(現在の東日本橋二・三丁目付近)に創建された当寺院は、明暦3年(1657)の大火で焼失後、浄土真宗の門徒であった佃島の人々が替地(八丁堀沖の海上)の埋め立て移転に尽力し、万冶元年(1658)の仮御堂落成以来、築地の地に大伽藍を構えてきました。その後、約90年前の関東大震災を契機に、和田堀廟所(現在の杉並区永福)への墓所移転や58ヶ寺を数えた寺中寺院の焼失・移転、昭和9年(1934)の本堂再建などを経て今日に至っています。震災復興後の伽藍構成・配置は大きく変化しましたが、境内には今もなお江戸時代に建立された墓碑が現存しています。今回の文化財は、このうち佃島の造成や本願寺の再建に尽力した佃島の開基・森家に関わる墓碑です。
正門を入って境内北側(本堂に向かって左)の欄楯近くまで進むと、角柱型の棹石(塔身となる角石)上部に唐破風の笠を置いた石塔が目に留まります。正面には「篤行院釋久西居士」の法名と「寛文二年壬寅 四月四日 享年九十有四歳」の没年陰刻があり、両側面に施された銘文(15行、合計205文字)によって、文久元年(1861)4月の森家祖先200年遠忌に際して造立(森幸右衛門勝鎮と佃〔宇右〕衛門寛敏の連名)したことがわかります。
銘文からは、森家の由緒(摂津国佃村庄屋・見一孫右衛門が家康から屋敷内の老松三本にちなみ「森」姓を賜る)、佃村漁師の功績(漁労許可を得た33名の漁師が安藤対馬守の江戸屋敷に移住して御用を務める)、佃島の造成経緯(百間四方の下賜地を正保元年2月に普請して佃島と名付く)などが確認できます。なお、森孫右衛門は佃島造成後に本国佃村へ戻り(年々出府)、従弟・佃忠兵衛が初代佃島名主(7代目以後に本国佃村の森家から入家)を務め、実弟(子の説あり)・九左衛門は日本橋で魚問屋を開いたといわれています。森孫右衛門は伝承が数多く残る史実考証の難しい人物ですが、残された記録等から検証する限り、墓碑に刻まれた法名(寛文2年・94歳没)は、初代佃島名主・忠兵衛と推定されます。
中央区総括文化財調査指導員
増山一成

お問い合わせ先

教育委員会事務局図書文化財課郷土資料館

〒104-0041 新富一丁目13番14号

電話:03-3551-2167

ファクス:03-3551-2712

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