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区のおしらせ 中央
平成29年8月21日号

区内の文化財

海水館跡

区民史跡 佃三丁目26番1・27番(地番)

海水館跡の記念碑
▲海水館跡の記念碑

隅田川河口部に位置する佃地区は、中央大橋から約150m東の佃二丁目地先で隅田川の流れを東西に分流させる(東の隅田川派川は豊洲運河・晴海運河へと流れる)地形となっています。なお、明治中期以降に月島地域の埋め立て造成が実施されるまで、当該地区は石川島(現在の佃一丁目11番、同二丁目1・3番、2番の一部)と佃島(現在の佃一丁目1から10番)の2つの人工島で構成されていました。
江戸の昔から人々の遊覧の地であった佃島は、とりわけその美しい景観が称賛されていました。『江戸名所図会』に記された佃島の情景には、「弥生の潮乾には貴賎袖を交へて浦風に醉を醒し貝拾ひあるいは磯菜摘なんと其興殊に多し月平沙を照しては漁火白く芦辺の水難波間の千鳥も共に此地の景色に入りて四時の風光足すとする事なし」とたたえられ、芭蕉の弟子・宝井其角の俳句「名月やここ住吉のつくたしま」も添えられています。
なお、佃島地先に続く月島地域の埋め立て造成は、明治から大正期(大正2年〈1913〉までに月島第一・二・三号埋立地、新佃島が完成)にかけて進められましたが、江戸時代以来の眺望と情趣に恵まれた環境は少なからず保持されていました。当時は、現在のように晴海・豊洲などの造成地もなく、殊のほか東京湾方面の美しい眺望景観に恵まれていたのです。中でも、明治29年(1896)に佃島東側の地先に築かれた新佃島(町名は新佃島西町一・二丁目および同東町一から三丁目)は、東京湾を臨む閑静な立地から別荘地(新佃島の東岸〈東町〉に集中)として利用され、遠く房総を見渡せる景勝地となっていました。
この閑静で美しい風致景観を有する新佃島の立地を生かし、埋め立て間もない明治38(1905)に割烹旅館「海水館」が開業しました。東京湾に面した新佃島東町一丁目の東岸に建てられた海水館は、仙台市の建物(料理屋から遊郭を経て廃業)を解体・移築(部材を再利用)してリノベーションした建物でした。約185坪の敷地に木造(総檜造)2階建で24の客間を有する豪勢な建物(建坪約130坪)が建てられ、外構を中心に門柱・敷石・土台・風呂などに至るまで宮城県産の粘板岩・稲井石(「仙台石」とも称される石で独特の木目模様がある)をふんだんに用いたといわれています。
海水館の周辺には、人家も少なく裏手には松林が広がり、海側の座敷からは釣りまで楽しめたというアメニティー豊かな旅館でした。このため、風光明媚な新佃島の地、わけても当割烹旅館の環境を愛してやまない文士・画家・俳優たちが数多く止宿し、創作活動や憩いの場、あるいはにぎやかな交流の場ともなりました。海水館に止宿した人々の中には、島崎藤村(詩人・小説家)・小山内薫(演出家・劇作家)・二代目市川左團次(歌舞伎俳優)・松崎天民(新聞記者・文筆家)・横山健堂(評論家)・三木露風(詩人)・吉井勇(歌人)・久保田万太郎(小説家・劇作家・俳人)・日夏耿之介(詩人・評論家)・佐藤惣之助(詩人)・竹久夢二(画家・詩人)・木村荘八(洋画家)などがおり、明治末から大正・昭和期にかけて活躍した著名人たちが名を連ねています。
島崎藤村は明治40年(1907)から約1年止宿しながら長編小説『春』を執筆し、藤村との交流から海水館に滞在することになった小山内薫も長編小説『大川端』をこの宿で執筆しています。また、小山内と新劇劇団「自由劇場」を結成した二代目市川左團次もしばしば芝居談議に訪れ、旅館全体が沸き返るような熱気に包まれたともいわれています。
割烹旅館・海水館の建物は大正12年(1923)の関東大震災で焼失しましたが、再建後に下宿旅館、アパート、そして現在は賃貸マンションに変容しながらもその名が引き継がれています。また、隅田川を臨む隣接地にも在りし日の海水館をしのぶ稲井石製の記念碑が建立されています。

中央区総括文化財調査指導員
増山一成

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