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区のおしらせ 中央
平成29年1月21日号

区内の文化財

一石橋の親柱

区民有形文化財 建造物 八重洲一丁目11番先

写真:一石橋の親柱
▲一石橋の親柱

旧江戸城の外郭(曲輪)に巡らされた外堀の一部(延長約4km)は、国史跡・江戸城外堀跡(牛込見附から赤坂見附に至る江戸城西方の堀・石垣・土手・枡形石垣、虎ノ門周辺に点在する石垣)に指定されています。
実際の江戸城外堀は、内郭(曲輪)や武家地の他に町人地などの城下町を取り込んだ延長約14kmの長大な堀でしたが、戦後の復興や第18回オリンピック競技大会(昭和39年〈1964〉)に向けた首都高速道路の建設に伴って大部分が埋め立てられました。
中央区内には、日本橋本石町から八重洲・銀座方面に外堀通り(東京都道405号外濠環状線)と通称される道路が通っていますが、実は昭和期の埋め立て以前までこの通りにほぼ沿った形で外堀が走っていました。特に、日本橋川に架かる一石橋(日本橋本石町一丁目と八重洲一丁目を結ぶ橋)は、かつての江戸城外堀(掘割はおおむね外堀通りの西側)と日本橋川との出会いに位置する橋として今日に至る都市の歴史を見つめてきた存在です。
江戸時代には、一石橋を含めて橋上から日本橋・江戸橋(日本橋川)、常磐橋・呉服橋・鍛冶橋(外堀)、銭瓶橋・道三橋(道三堀)の8橋を顧望する”八見橋(八橋・八ツ橋)”の異名を取りました。江戸在住の僧・釈敬順が著した紀行文『十方庵遊歴雑記』では、幕府による通用禁止銭(永楽通宝)の回収に際し、この橋に米俵を積み置いて永楽銭一貫文の持参者に対して玄米一石と交換した史実を橋名由来として説いています。なお、橋を挟んで北の後藤庄三郎(金座)と南の後藤縫殿助(呉服所)の両後藤(五斗)を合わせて一石となるが故の橋名だとする洒落を好んだ江戸っ子らしい説も語り継がれています。
江戸時代から明治期まで改架を繰り返してきた一石橋は、大正11年(1922)に木造橋から鉄筋コンクリート造(外壁は石〈花崗岩〉張り)の近代的な二連アーチ橋(橋長約43m・幅員約27m)となりました。昭和・平成の改修工事で鋼鈑桁橋(主桁構造がI形断面となるように鋼材を組んだ橋)となりましたが、保存された大正期の重厚な花崗岩積み親柱1基(全高約1m30cm)は、都内最古のRCアーチ橋の親柱として今もなお堂々たる姿を見せています。

中央区総括文化財調査指導員
増山一成

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