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区のおしらせ 中央
平成28年5月21日号

区内の文化財

服部家文書

区民有形文化財 古文書 明石町12番1号 郷土天文館

服部家文書
▲服部家文書

徳川家康の江戸入部(天正18年〈1590〉)を契機に、江戸城の築城および城下町の造成工事が進められたことは広く知られています。三代将軍徳川家光の頃には、一連の大土木工事によって総構えの巨大な城郭が整えられ、武家地・町人地・寺社地を配した大都市江戸の骨格が形作られました。中でも中央区エリアは、江戸の経済・商業を支える城下町であったが故に物資の流通に欠かせない掘割網が発達していました。
区内や区境を流れる掘割には、神田川・日本橋川・亀島川・築地川などが現存していますが、水利機能を有していた掘割の多くは時代とともに物流・商流の変化に伴って埋め立てられました。とは言え、区内には町・通り・橋・交差点などに掘割をしのばせる名称が残されています。
「堀留」の名がある日本橋堀留町もその一つで、江戸時代から震災前の大正期まで、日本橋川が江戸橋を過ぎた辺りで北西に屈曲する2本の並行した入堀(伊勢町堀〈西堀留川〉と堀江町入堀〈東堀留川〉)がありました。物流の利便性が高いこの入堀は、諸物資を荷揚げする河岸が発達し、堀留の町屋には問屋が軒を連ねていました。文政7年(1824)の『江戸買物独案内』(店名〈屋号〉や取り扱い品目などの案内書)をみると、堀留町一、二丁目に数多くの問屋(紙・茶・線香・煙草・醤油酢・乾物・畳表・釘鉄銅物・下り傘・下り雪駄・明樽・瀬戸物問屋など)が掲載されていることが分かります。
今回の文化財は、堀留町一丁目(現在の日本橋本町二丁目7番)で「湊屋(源三郎)」と号する紙問屋(明治34年に合資会社服部紙店、大正7年に株式会社服部紙店、昭和49年に服部紙商事株式会社と改組し、平成18年には国際紙パルプ商事株式会社と合併)を営んでいた服部家の文書です。
同家の創業は、伊勢国(現在の三重県松阪市)から江戸へ下った服部家初代・仁平治が万治2年(1659)に両国橋付近で開業した煙草屋に始まります。後に堀留町へと移転し、三代・八左衛門の代で紙商を兼業して江戸十組問屋(下り荷を運ぶ菱垣廻船の支配・監督を行う問屋仲間)に加わるまでに成長しました。典型的な伊勢商人であった湊屋(服部家)は、複数の問屋株(紙・茶・煙草・下り傘・下り蝋燭・下り索麺・麻苧・線香など8種類)を所有する多角的な経営で大いに発展しました。
服部家伝来の古文書は、寛政8年(1796)から昭和33年(1958)までの史料1636点(半数以上は江戸時代後期から明治初年の文書や記録)が現存しています。伊勢の服部本家を基盤とする江戸店・湊屋では、主人が国許の伊勢において資金運用に専念し、江戸店は店預かりの支配人格に任せるという経営方法(管理機構)が固守されていました。史料にはこうした点を物語るように、伊勢本家からの通達状や本家への積立金の記録などが数多くみられます。
また、明治期の店規則に関わる史料も伝来しており、家訓や店の組織・運営、職名や役柄による店員の衣服制限、別宅勤務や本家・家内出勤の心得などの細かい規定が記されています。近代以降の店規則類には事務的な項目もありますが、基本的には江戸以来の伊勢商人の江戸店経営や精神を受け継いだ内容であることが読み取れます。この他にも、江戸時代後期から明治中期にかけての奉公人(店員)名簿、紙類の仕入れ先・販売先・価格・売上金額などの原簿、伊勢本家の資産・財政規模を示す帳簿類など、その内容は多岐にわたっています。
服部家文書は、江戸店を構えた伊勢商人の実情とともに、近代以降にも引き継がれた経営手法を詳細に知ることのできる希少な文化財です。

中央区総括文化財調査指導員
増山一成

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