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区のおしらせ 中央
平成27年12月21日号

区内の文化財

船宿山崎屋関係資料

区民有形文化財 歴史資料 明石町12番1号 郷土天文館
写真:船宿山崎屋関係資料
▲船宿山崎屋関係資料

江戸時代から明治期の中央区域は、全国からの諸物資が水運によって集まる物流ターミナルとしての機能を有する場所でした。江戸湊、隅田川、そして水運網である掘割が整備され、船着場とともに物資の集積場である河岸・物揚場が発達していました。
舟運が物資輸送や商品流通の中心を担っていた明治期までは、船荷の回漕や船乗りの宿泊、あるいは水上交通や船遊びの貸船を仕立てる「船宿」が数多くありました。特に、浅草に移転した吉原や芝居町、深川などの岡場所や料理茶屋、春の花見や夏の夕涼みといった遊興・物見遊山の利用客が多かったため、江戸の船宿は隅田川沿岸や内陸水運の基地となった河岸に多く立地していました。
なお、江戸の代表的な船宿は、柳橋・日本橋・堀江町・江戸橋・八丁堀・汐留の辺りにあり、文化年間(1804から1818)にはその他の河川沿岸に散在する船宿を含めて600余戸を数えると言われるほどの盛況をみせました。
今回の文化財は江戸・明治を通して船宿を営んでいた山崎屋の資料です。当家は、江戸時代初期から代々船宿渡世を営んできた旧家で、享保期(1716から1736)頃には汐留橋近くの芝口新町(現在の港区新橋一丁目)に店借し、汐留川の河岸地を拠点に船宿の営業を続けてきました。しかし、明治3年(1870)には明治政府による日本最初の鉄道建設(明治5年に新橋・横浜間で開通)が着手され、東京の玄関口となる汐留駅舎(新橋停車場)建設に伴う鉄道用地の収用・買収が進められました。その結果、山崎屋は三十間堀川に隣接する木挽町七丁目(現在の銀座八丁目)へと移転(明治4年)し、明治末年まで同地で船宿を営むことになりました。
山崎屋関係資料には、屋形船「高尾丸」の横額や古記録類(明治13年から大正3年)のほか、芝口新町で営業していた頃の船持許可証である船鑑札や通行許可手形の門札、木挽町に移転後の門札類が合計20点ほどあります。中には、山崎屋吉兵衛の所有を示す屋形船「若吉丸」の鑑札(嘉永6年6月改)や稲葉伊予守屋敷への通行許可証「門出入札」(文化5年12月)、東京府京橋区長から交付された「遊船宿営業鑑札」(明治12年7月)といった具体的な資料もあり、河岸地で営まれた船宿の歴史を伝える希少な歴史資料も含まれています。

中央区総括文化財調査指導員
増山一成

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