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区のおしらせ 中央
平成27年10月21日号

区内の文化財

法重寺の大きん

区民有形文化財 工芸品 築地三丁目17番10号 法重寺

法重寺の大きん
▲法重寺の大きん

大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災は、南関東から東海地域の広範囲に被害が及ぶ巨大地震(震源は相模湾北西沖80キロ、規模は推定M7・9)でした。特に東京・横浜の両都市は、地震発生後の二次災害(火災)によって大惨事となりました。 なお、東京では日本橋区・京橋区などの下町低地において焼失が著しく、壊滅的な打撃を受けています。
甚大な被害に見舞われた東京市・横浜市は、特別都市計画法(大正12年12月24日公布)および帝都復興計画に基づく各種事業の施行によって旧市街地の改造が図られました。主な事業には、土地区画整理・街路・橋梁・河川運河・公園・地下埋設・学校建設・上下水道施設・ガス施設・塵芥処分施設・衛生施設・社会事業施設・卸売市場・電気事業施設・復興建築などがあります。このうち基盤施設の整備などは内務省復興局が担当し、それ以外は東京市と横浜市が事業主体(東京府・神奈川県が一部施行)となって実施しました。
中央区を縦横に連絡する道路交通網の形は、震災後の復興街路として新設・拡幅された幹線(幅員22m以上の昭和通り・永代通り・新大橋通り・晴海通り・八重洲通りなど)や補助線(幅員11mから22mの道路)などの都市計画道路がベースになっています。
特に、58カ寺もの地中寺院を抱える築地本願寺周辺の様相は、幹線4号(晴海通り)・5号(新大橋通り)の整備や中央卸売市場(築地市場(外部サイトへリンク))の建設などに伴って大きく変化しました。被災した地中寺院の多くは郊外へと移転し、跡地には場外市場が形成されていったのです。築地本願寺の隣地に法重寺・善林寺、場外市場の中に円正寺・称揚寺・妙泉寺といった浄土真宗寺院が散在しているのは、周辺一帯が寺町であったことの名残なのです。
今回の文化財は、築地本願寺の地中寺院であった浄土真宗本願寺派・松村山法重寺に伝来する什物の大きんです。法重寺の開山は『寺院明細帳』などによれば、天正19年(1591)に真言宗の僧・空了が村松町(現在の東日本橋一・三丁目)へ坊舎を建立したことにはじまるとあります。慶長13年(1608)には浄土真宗に帰依し、麻布山善福寺(港区元麻布一丁目の浄土真宗本願寺派寺院)の末寺となり、寺号も法重寺と改めました。
その後、元和3年(1617)に西本願寺の江戸別院が横山町二丁目南側(現在の都営地下鉄浅草線東日本橋駅付近)に建立されると、寺を本願寺内に移して末寺の一つとなりました。そして明暦3年(1657)の大火後には、八丁堀沖の海上に移転・再建が進められた本願寺とともに現在地(築地)に移転して今日に至っています。
さて、鳴物(打楽器)の仏具である法重寺の大きんは、現在も誦経の合図などで打ち鳴らされています。当大きんは、本堂内陣(外陣よりの際)にあり、脚のある朱塗りのきん台上に厚みのあるきん布団を乗せ、この上に大きなお椀型の大きん(口径約45cm・全高約35cm)が据え置かれています。目を凝らすと、口縁部に沿って銘文が横位(口縁を左側に向けた状態で縦書き)に陰刻されていることがわかります。
現在は磨滅によって判然としない部分もありますが、「慶長三年正月吉祥日 村松町 法重寺」と施されていたことが確認されています。製作年代を示す「慶長三年(1598)」や旧町名にあたる「村松町」の在銘からは、築地移転前の近世初頭の仏具であることが読み取れます。
口縁部を下から押し上げるように桴(皮で巻いた木製の打奏具)で打つと、心に染み入るような柔らかい鐘の音が歴史を象徴するかのように長い余韻をもって響き渡ります。

中央区総括文化財調査指導員
増山一成

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