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区のおしらせ 中央
平成26年9月21日号

区内文化財

森孫右衛門供養塔

区民有形民俗文化財 築地三丁目15番1号 築地本願寺


  写真 森孫右衛門供養塔
  ▲森孫右衛門 供養塔

築地三丁目に堂宇を構える仏教寺院・築地本願寺は、京都市下京区にある西本願寺(浄土真宗本願寺派本願寺)の直轄寺院です。インド様式の意匠を採り入れた異国情緒漂う本堂や境内を囲う欄楯(大谷石造の塀)は、築地のランドマークにもなっています。
京都・西本願寺の別院として江戸の横山町(現在の東日本橋二・三丁目付近)に創建された当寺院は、明暦3年(1657)の大火で焼失後、浄土真宗の門徒であった佃島の人々が替地(八丁堀沖の海上)の埋め立て移転に尽力し、万冶元年(1658)の仮御堂落成以来、築地の地に大伽藍を構えてきました。その後、約90年前の関東大震災を契機に、和田堀廟所(現在の杉並区永福)への墓所移転や58ヶ寺を数えた寺中寺院の焼失・移転、昭和9年(1934)の本堂再建などを経て今日に至っています。震災復興後の伽藍構成・配置は大きく変化しましたが、境内には今もなお江戸時代に建立された墓碑が現存しています。今回の文化財は、このうち佃島の造成や本願寺の再建に尽力した佃島の開基・森家に関わる墓碑です。
正門を入って境内北側(本堂に向かって左)の欄楯近くまで進むと、角柱型の棹石(塔身となる角石)上部に唐破風の笠を置いた石塔が目に留まります。正面には「篤行院釋久西居士」の法名と「寛文二年壬寅 四月四日 享年九十有四歳」の没年陰刻があり、両側面に施された銘文(15行、合計205文字)によって、文久元年(1861)4月の森家祖先200年遠忌に際して造立(森幸右衛門勝鎮と佃〔宇右〕衛門寛敏の連名)したことがわかります。
銘文からは、森家の由緒(摂津国佃村庄屋・見一孫右衛門が家康から屋敷内の老松三本にちなみ「森」姓を賜る)、佃村漁師の功績(漁労許可を得た33名の漁師が安藤対馬守の江戸屋敷に移住して御用を務める)、佃島の造成経緯(百間四方の下賜地を正保元年2月に普請して佃島と名付く)などが確認できます。なお、森孫右衛門は佃島造成後に本国佃村へ戻り(年々出府)、従弟・佃忠兵衛が初代佃島名主(7代目以後に本国佃村の森家から入家)を務め、実弟(子の説あり)・九左衛門は日本橋で魚問屋を開いたといわれています。森孫右衛門は伝承が数多く残る史実考証の難しい人物ですが、残された記録等から検証する限り、墓碑に刻まれた法名(寛文2年・94歳没)は、初代佃島名主・忠兵衛と推定されます。

中央区総括文化財調査指導員
増山 一成

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