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区のおしらせ 中央
平成25年5月21日号

区内文化財

海運橋親柱

区民有形文化財 建造物日本橋一丁目および日本橋兜町
隅田川や東京湾に面する中央区は、全体の18パーセント以上が水域であり、東京23区内で最も大きい水域面積を誇っています。水運が都市の経済を支えていた江戸や明治の時代にさかのぼれば、諸国からの物資輸送路としての堀割が縦横に張り巡らされ、今以上の水域面積を要した“水都”と呼ぶにふさわしい空間が広がっていました。
物資輸送が水運から鉄道・道路へと変化していく近代以降は、都市改造(関東大震災後の帝都復興・終戦後の復興・東京オリンピック開催に向けた整備)の過程の中で、役割を終えた多くの堀割が埋め立てられました。
東京オリンピックに向けた道路整備の一環で埋め立てられた「楓川」もその1つで、かつての堀割上に首都高速都心環状線(現在の江戸橋JCTから京橋JCTへ至る約1.2キロメートル)が走っています。そして現在は、楓川の名残を示す橋の遺構として「海運橋親柱」が2基残されています。
楓川に架かっていた「海運橋」は、江戸時代初期の絵図に「高橋」と記され、その後の絵図には「将監橋」「海賊橋」といった橋名が見られます。橋の名は、東詰に海賊衆(幕府成立後は船手頭)・向井将監の屋敷があったことにちなむようです。
なお、初期の江戸図を見ると、楓川東岸の地に船手頭(幕府用船の保管や巡視などの任にあたる若年寄配下の職)の屋敷が配置(向井・間宮・九鬼・小浜・小笠原氏)されており、当地が江戸城防備の要衝であったことがうかがえます。
橋はその後、明治元年(1868)に「海運橋」と縁起を担いだ橋名へと改称し、同8年には石造アーチ橋へと改架されました。また、東詰には、明治6年開業の擬洋風建築・第一国立銀行(みずほ銀行の前身)や同11年開業の東京株式取引所(東京証券取引所の前身)などが設立され、土地の様相も大きく変化しました。
昭和2年(1927)に震災復興橋梁として改架された海運橋は、楓川の埋め立てに伴って撤去されましたが、明治8年の石造親柱(高欄の端部)のみが記念碑として保存されました。橋が撤去された今では、通りを行き交う人々をさりげなく迎え入れながら、往時の歴史を物語っています。

海運橋親柱
海運橋親柱

中央区主任文化財調査指導員
増山 一成

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