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区のおしらせ 中央
平成24年12月21日号

区内文化財

鐵砲洲稲荷神社

区民有形文化財 建造物湊一丁目6番7号 鐵砲洲稲荷神社
湊一丁目に鎮座する鐵砲洲稲荷神社は、毎年1月の第2日曜日に行われる「寒中水浴大会」(一年の無病息災を願う禊祓神事)などでも良く知られる神社です。白鉢巻に褌姿(女性は白装束)の氏子衆が、氷柱の浮かぶ水槽に入って身を清める様は新年の風物詩として親しまれています。昭和30年から始められたこの神事は、平成25年で58回目(1月13日の予定)を迎えます。
江戸時代の鐵砲洲稲荷神社は、現在の社地から100メートルほど北北東の位置(現在の湊一丁目8番付近)にありました。地理的には稲荷橋(現在の八丁堀地区と湊地区を結ぶ鉄砲洲通りに架けられていた橋)の南詰に位置し、東は大川(隅田川)に面する“鉄炮(砲)洲”と称される場所にありました。江戸湊に面した場所に鎮座する当社は、その立地から入津する諸国廻船の船乗りたちからも篤く信仰されてきました。
当時の情景は、江戸時代の地誌『江戸名所図会』の挿画や歌川広重の「名所江戸百景 鉄炮洲稲荷橋湊神社」にも描かれ、社付近には江戸へと入津する多くの廻船が見て取れます。『江戸名所図会』「湊稲荷の社」のくだりにも「此地ハ廻船入津の湊にして 諸国の商船普くここに運ひ 碇を下して此社の前にて積所の品を悉く問屋へ運送す 此故にや近世吉田家より湊神社の号を贈らるる 当社は南北八丁堀の産土神なり」と記されています。
江戸時代以来の社地は、明治元年(1868)に築地外国人居留地(現在の明石町一帯)の開設にあたって御用地となり、替地として本湊町30番地(現在の社地)へ移転しました。その後、社地および社殿などは、関東大震災後に復興整備されて現在に至っています。
境内正面となる社地東側の石造明神鳥居をくぐると、中央奥に「社殿」・左手に「神楽殿」「摂社八幡神社」・右手に「手水舎」「社務所」などが配置されています。これらの建物は、関東大震災後の復興建築を今に伝える貴重な文化財となっています。
昭和10年(1935)に造営された「社殿」は、拝殿・幣殿(拝殿と本殿の間にある幣帛をささげる社殿)・本殿がつながる権現造です。拝殿には、間口三間(約5.4メートル)ほどの向拝(屋根を張り出した拝礼の場所)があり、軒唐破風の特徴的な幅広屋根は四本の向拝柱で支えられています。軒下の組物は三斗(肘木の上に巻斗を三つ並べて載せたもの)を十字に組んだ出三斗で、正面の水引虹梁(やや反りを持たせた化粧梁)や透かし彫りの本蟇股、向拝柱の外側に突き出した木鼻や肘木と垂木との間の手挟(向拝柱内側の上部にある三角形の材)などの彫刻は、何れも質素で落ち着いた造りです。
拝殿と幣殿はともに木造銅板葺ですが、拝殿は千鳥破風付(端が屋根の端と一致していない破風)の入母屋造(上部は棟を境に二方向にふきおろした切妻屋根、下部は四方向に勾配をもつ寄棟屋根の形)で、幣殿は切妻造です。なお、拝殿には鉄筋コンクリート造の地階があり、境内右手の社務所と地下道で連結する構造となっています。最奥部の本殿は鉄筋コンクリート造銅板葺で、正面の柱間の数が三つある三間社流造です。
境内にはこのほか、鉄筋コンクリート造の地階がある「神楽殿」や「摂社」、住居を兼ねた木造総二階建(一部地階あり)の「社務所」や「手水舎」など、何れも昭和12(1937)年造営の銅板葺で趣のある建物が目に入ります。
当社には、震災復興後に造営された諸建造物が極めて良く残されており、神社建築への鉄筋コンクリート構造の導入過程を示す貴重な文化財となっています。


鐵砲洲稲荷神社
鐵砲洲稲荷神社

中央区主任文化財調査指導員
増山 一成

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