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区のおしらせ 中央
平成24年10月21日号

区内文化財

末廣神社所蔵文書

区民有形文化財 古文書 日本橋人形町二丁目25番20号 末廣神社

日本橋人形町二丁目に鎮座する稲荷社・末廣神社は、同町の鎮守であるとともに、新春の風物詩「日本橋七福神めぐり」のお社の1つとして信仰を集めています。
創建年代は不詳ですが、当社伝来の文書「末廣稲荷由緒書」には、元和元年(1615)、徳川家康の命によって駿河国(現在の静岡県)から江戸へと移住した法印・山本院実行が、当地に古くからあった稲荷社に奉仕したという記載がみられます。
また、同社文書「難波町裏河岸 末廣稲荷社取調書」によると、当初の稲荷社は、浜町堀(日本橋小伝馬町19番先から日本橋蛎殻町二丁目18番へと至る堀川)から西へと入る入堀(現在の人形町二丁目5・8・24・28番付近)に架かる橋(入江橋)近くにあり、その後、難波町裏河岸(現在の人形町二丁目25番付近)沿いの入堀の東側へと移転したことも記されています。
なお、末廣神社の社地近隣(現在の日本橋人形町二・三丁目、日本橋富沢町の一部)には、江戸初期(元和3年から明暦3年)に傾城町(遊女屋が集まる町)の「吉原」(浅草移転前の旧地を「元吉原」とも呼ぶ)が開設されていました。同社文書「末廣稲荷由緒書」にも、当社が吉原遊廓内の町(江戸町・京町・角町など)の産土神として位置付けられていたことや、明暦3年(1657)の大火で吉原が浅草へと移転(「新吉原」)した後も、跡地に起立した町(難波町・高砂町・住吉町・新和泉町)を氏子として篤く信仰されてきた経緯が記されています。
この由緒書には、延宝年中(1673から1681)に行った社殿修復で、一柄の中啓(親骨の上端を外側に反らせ、畳んでも半開きに見える扇の一種)が見出されたため、社名が“中ば啓いて先が広がる扇(末広)”にちなむことも触れられています。
同社所蔵文書には、稲荷本山公文所からの許状・神社修復願書・境内絵図などの近世文書、神仏分離令発布に伴う明治期の同社と氏子の動向・明治から大正期の祭礼に関する近代文書が伝来しています。
末廣神社所蔵文書は、近世から近代に至る同社や氏子町の実情が記されている貴重な史料といえます。


末廣神社所蔵文書

中央区主任文化財調査指導員
増山 一成

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