平成21年2月15日号
区内散歩
外国人が見た中央区(六) ケプロン(続)
明治4年7月(西暦1871年8月)に開拓使顧問として招
アメリカから持参した大麦、小麦、トウモロコシなどの穀類や牧草、野菜類の種を蒔いて、日本の土壌に適合するかどうかを実験したりしながら、アメリカで調達した牛・馬・羊の家畜や、蒸気機関・製材用鋸・製粉機・旋盤や農機具一式の到着を待っていました。その間、ケプロンは市内や近郊の農村地帯を見学して廻りました。
そのような準備の最中に、銀座の火事を身近に見ています。まず、明治五年1月14日(2月22日)、日吉町(銀座八丁目)一帯を焼いた火災の様子を日誌に書き留めています。この火災は約40日後に発生した2月26日(4月3日)のいわゆる銀座大火の陰に隠れてあまり知られていませんが、177戸を焼失させた火災です。
昨夜8時30分ころ火事の警鐘が鳴り、まもなく町中の騒ぎになった。空は晴れ、月が明るく照っているので、火事場へ急ぐ人込みの中へ入った。通りは叫びうごめく群集でいっぱいである。
そろそろ月が満ちるころなのに、どの人も大抵提灯を持っている。火事場に近づくと、今や火は燃えるがままであり、どの通りもどこの場所も大勢の興奮した人たちで文字どおりのごった返しである。ある者は西へある者は東へ駆け、わめき叫んで押し合いへし合い、別にこれといった目的があるようでもない。
(避難民は)ぶつかり、かち合い、まるで増水した急流を流れる木が、時には沈み、時には浮かび、ともかく何とか前へ進もうとするのに似ている。正に完全な修羅の巷である。
広い地域が焼けるが、ほとんど風がないため江戸の火事としては、それほどひどいものではなく、たぶん二番目か三番目の大火だろう。多くの街や家が焼け、気の毒にも、恐らく何千という人が丸裸になるが、愚痴も言わなければまた格別落胆した様子もない(2月23日)。
そして、2カ月後の2月26日(4月3日)に銀座から築地にかけて42カ町を焼き尽くした大火を見聞しています。
今日、3時30分、全くの強風になり、火事の警鐘が町中に鳴り渡った。火事は宮城の第二の濠の内側で起こり、強風にあおられ、広い濠を二つ越えて広がり、消えた時には、町が一マイル半の幅で海岸まですっかり焼けてしまった。火が通った後は、類焼を免れた家は一軒もなく、残ったのは耐火造りの倉庫だけである。
町の中心部を焼き、焼けた中には多くの実に大きな建物があって、約60の寺と、江戸最大のホテルが、といってもホテルはこれ一つであるが、含まれている。そして町に住む外国人は、家の近くまで燃えてきたので、熱くなって今にも夢中で皆逃げ出すところであった。海軍省の建物は一部だけ耐火性であるが、奇跡的にも類焼を免れた。
中略
女や子供が家族ごとに集まり、持ち出した僅かな物を積み上げ、冷たいしめった夜気に当たらぬよう仮の住まいを作っている。この境遇では夜気は一層身に染みるに違いない。
しかし、万事この状態で、愚痴もこぼさず、涙や不満の声もなく、すべての人の顔にあるものは静かな諦めと、運命に対するまるで喜びともいえそうな服従である。ほんとうに驚くべき国民である。
『ケプロン日誌 蝦夷・江戸』
火災都市江戸に生きる市民にとって、火事は我が身に降りかかる運命として受け入れざるをえなかったのですが、外国人にとっては、何とも奇妙な国民性としてうつったのでしょう。このような驚きは石の文化をもつ外国人に共通のものでした。
中央区文化財調査指導員
野口 孝一

銀座大火の瓦版 明治五年(三枝進氏蔵)
