資料室
体験記-戦時下の生活体験-
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戦時下の生活体験
戦争被害体験記

佐野 久子(さの ひさこ)

 私の父の勤め先は、銀座二丁目の米田屋洋服店で、工場が蒲田にあり、工場につながって私の家がありました。私は、昭和20年4月15日に、その蒲田区仲蒲田に住んでいて罹災いたしました。1年前ころだったと思うのですが、それまで住んでいた家は、強制疎開でこわされ、隣の祖母の家のほうに移り住んで間もなくのことでした。祖母の家は、蒲田では大きいほうで、隣には、社長だった母の兄・柴田武治の家があり、庭は芝生で、睡蓮の池があり、池には鯉や食用蛙がいて、橋がかかっていて、その後ろには築山があり、ぐるりとめぐることができました。たくさんの植木のみどりに囲まれて、あちこちに庭石やつくばい、灯籠などがありました。その築山の下に、父は防空壕を掘って、警戒警報のサイレンの度に家族を避難させました。
 当時、私は、都立第八高等女学校の2年になったばかりでした。4月15日の夜、警戒警報のサイレンが鳴ったか鳴らないか、たぶん鳴らなかったという程の急の出来事でした。急いで防空壕に駆け込んで扉を閉めて間もなく、ぴゅ一というB29の敵機の急降下の音、どかーん、どか一ん、爆弾の破裂する音に生きた心地もありませんでした。そーっと外を覗いた父は、「大変だ、直ぐ防空壕を出るように」と家族を促しました。焼夷弾が庭木に飛び散って、まるでクリスマスツリーのように何千という数の火が枝について燃え始めているのでした。一瞬、これが空襲でなかったら、真夜中にこんなに美しい景色はないと思えるほどの夢の世界にいるようでしたが、現実はこのままにしていたら、みんな燃え尽きてしまうことを直感しました。家にも、焼夷弾がいくつか落ちているので、父と兄は池の水を汲んで、なんとか消しとめようとしました。母は、鎌倉の別荘に移り住んだ祖母が危篤でそちらに行って居りませんでした。後で、祖母はその日に亡くなったことを知らされました。

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