資料室
体験記-戦時下の生活体験-
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戦時下の生活体験
甘酒横丁の焼跡に畑があった

近藤 光男(こんどう みつお)

 昭和20年の3月10日の大空襲の時には、私はこの地で空襲を受けました。家族全員一緒で、いまの東商信用金庫がある辺りから東華小学校の辺りまで逃げて行きましたが、近くにあったお米屋さんや、近所の人たちもみんな一緒でした。
 朝になって、家の近所は焼け残ったと聞いて、みんなでそろって帰ってきたわけです。周囲が明るくなって見回すと、あたり一面がきれいに焼けてしまって何1つ残っていませんでした。新聞社の屋上から葛西橋辺りまで見えたんですから。
 ところが、この人形町二丁目あたりは奇跡的に焼け残っていました。大門通りからこっちは全然燃えなかったんです。ですから、戦時中、私のところはまったく火災にはあってないんです。その頃、浜町公園に高射砲陣地があって、そこへB29が来て、そのうちの1機を落としたということなんかはよく憶えていますね。
 私の家は変電所の裏にあって、建物の強制疎開にあいました。自宅のすぐ近くに変電所と毎夕新聞社があったため、壊されてしまったんです。昭和20年の6月か7月のことでした。終戦の直前のことです。終戦まで2か月あったか、ないかという頃だったんですから。もう少し後だったら、家を壊されずにすんだのに、と後からみんなで言い合ったものです。
 家を強制疎開されたことへの補償なんて特になかったですよ。ただ、壊された古材木を安く売ります、という話はありましたね。当時の私の家は、その古い材木で建てました。あの当時、いくらだったか・・・・・、家を壊されてしまって、別の所に建てるのに材料が足りないというので、廃材を買って来て、それを組んで建てたんです。

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