資料室
体験記-戦時下の生活体験-
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戦時下の生活体験
うすれかけた記憶から

平石勝(ひらいし かつ)

 私は昭和17年7月中旬に召集されて、赤羽の工兵隊に入隊し、そこから戦地へ行きました。そして、昭和20年12月31日に、栄養失調のために身体中がむくみ、地下足袋もはけない状態でパラオから復員し、郷里の千葉へ帰ったのです。
 昭和21年に再び東京に出てきましたが、その頃、鉄砲洲あたりは戦時中の強制疎開の跡も生々しく、まだ畑が残っていました。
 応召されるまで、私は当時日本橋茅場町にあった自動車整備会社で働いておりました。仕事はたくさんありましたが、給料は安く、月15円から20円くらいだったと記憶しています。しかし、1円あれば地下鉄で浅草へ行き、映画を観て、飯も食えて、帰ってこられるという時代でした。バットが7銭、「アタピン」と呼んでいた酒が1合13銭、高級な菊正は60銭で、隣のミルクホールのコーヒーは5銭でした。
 現在の新大橋通りのあたりには飲食の屋台が並び、縁日のような賑わいでした。焼鳥、もつ焼、もつ煮込み、すし、中華そば、おでん、フライ、トンカツ、など・・・・・。キングの新年号の厚さを売り物にした厚切りトンカツの店もありました。食べ物はなんでもあったように思います。
 昭和16年の暮れに、貯金をはたいて神田でラグランのオーバーを買いました。200円近い高級品で、私にとってこれが唯一の財産でした。
 作業用のつなぎ服にスフのはいったものがありましたが、衣料はまだ切符制になっていなかったように思います。
 召集令状を受け、送別会を目黒の料理屋で行いましたが、その時、鯨の肉が出たように記憶しています。
 その頃には食用油も不自由になってきており、得意先の油屋から内緒でわけでもらった油を叔父宅にあげて喜ばれたこともありました。

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