資料室
体験記-戦時下の生活体験-
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戦時下の生活体験
苦しかった体験は現在の励み

久長満智子(ひさなが まちこ)

 当時(昭和19年〜20年)、私は都立竹の台高等女学校の4年生、5年生の2年間を王子の陸軍造幣厰(武器製造工場)の学徒勤労動員生として過ごしました。そこでは若い女性でないと難儀な細かい仕事、具体的には高射砲弾の信管を流れ作業で作っていました。
 戦争も激しくなり、都市爆弾が街を焼野原にしていきました。成層圏を飛来する米国B29爆撃機の大群に、まるで線香花火を上げているような日本の対空砲射撃を私は防空壕の外に出て見ていました。空しく落ちてくる高射砲弾の破片を拾いに走りたい気持ちでした。
 その頃はもう工場では信管を作るための部品の供給が難しくなってきており、流れ作業の部品が流れず、部品待ちを続けるような状態になっていました。
 そのような状況の時でしたので、満足な食事はできませんでした。終戦間近では、お米の配給があればよい方で、粟、とうもろこし、ひえ、大豆のお粥を食べました。芋などあれば上等な方で、育ち盛りであったため、お腹が空いてしかたありませんでした。栄養失調のため家の2階へ上がるのに、足がだるくて上がらないようなこともありました。ところが、動員に行くと、そこで1週間に1度、金曜日に栗饅頭が1個、帰り際に配給になるのですが、それを家まで持って帰ることができないのです。途中で食べてしまうのでした。これが楽しみでした。また、1週間にやはり1度、3時にかけうどんが出ました。それは自分でお湯をかけて作るようなもので、5〜6人ずつ食堂へ行って食べました。それもとても楽しみでした。
 お昼は生ニシンを蒸したり煮たりしたようなものが出ました。「今日もニシン、明日もニシン」と毎日同じ物が出されたのですが、唯一のタンパク源で、おいしかった記憶があります。

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