資料室
体験記-戦時下の生活体験-
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戦時下の生活体験
戦中派と言われる私の体験

根本 幸子(ねもと ゆきこ)

 昭和3年2月16日、私は「京橋区南飯田町」において生まれました。以来、幸せにもこの区内を動いていないのです。
 今の「明石小学校」4年生になる前の春休みに、区内の新佃島東町に移転し、懐かしい「佃の渡し船」で毎日通学し、昭和15年の春卒業し、桜の花弁の「ひらひら」舞う4月、まだ多少のどかさの残る、旧制5年制の麹町三番町に校舎のある女学校に希望に満ちて入学しました。長引く満州事変に、そろそろ物がなくなり始め、新調した制服は純毛ではなく、いわゆる「スフ」入りでした。夏、冬1着ずつの制服を「つぎ」を当てながら5年間大事に着ました。
 やがて急速に物資は不足し、総ての物が配給制度となり、お米・小麦粉・砂糖・塩・味噌・醤油・日用品総て大切に少しずつ使用せざるを得なくなりました。芋の飯・すいとん・雑炊、育ち盛りで学校に通う私のお弁当箱の「大豆入りの飯」は、カバンの中で何時も片隅に寄っていました。
 第二次世界大戦に突入してからは、女学校は3年生で通常授業は終わりを告げ、英語は敵国語として廃止され、私たち女学生、男子中学生は首都東京を守るべく「学徒動員」され、学校工場として沖電機の電信器のメーター取り付け作業に従事する事となりました。
 朝、登校して朝礼を終わり、2時間勉強し、それから作業にとりかかり1日を終わる毎日でした。常に防空頭巾を背中に、もう「カバン」ではなく、布で作った下げ袋の中に非常食やら、三角巾等を入れ、薬は「赤チン」だけだったと思います。制服の下は「もんぺ」で、靴がなければ下駄でもよいと学校側に言われた次第です。当時、私は市電で通学しておりましたが、楽しみと言えば土曜日の帰り、級友とおしゃべりをして、2、3の停留所を歩くのが唯一の楽しみでした。本当に懐かしい思い出です。それでも、それなりに充実した青春を悔いてはおりません。

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