資料室
体験記-戦時下の生活体験-
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戦時下の生活体験
商売では食べていけなかった時代

島田 立一(しまだ りゅういち)

 戦争当時の私は30代の働き盛りで、家業の履物商を父とともに営んでいました。
 昭和16年頃から戦時色が強くなってきて、まず米穀が統制され、配給制になりました。次いで砂糖、味噌も切符制になり、最終的にはすべての商品に公定価格が設定され、それ以上の価格で売ると、闇行為として経済警察に引っ張られるはめとなる状況を迎えたのです。履物も統制が敷かれ、利益を出すことができず、実質、商いは成立しなくなり、企業整理といって、廃業あるいは転業するものに対して、同業者が金を集めて送りました。仮に1,000軒以上あった家の半数以上がやめたとすると、その都度なみだ金を出すのです。その額は事業規模によって異なりました。履物業者にもクラスがあり、特級が1、2、3級、1級から18級まで22クラスあり、それは過去3年間の物品税、営業税から決められていました。私の店は2,000軒中、18位(2級)だったのです。
 父は東京履物組合の理事長を昭和15年から47年までの32年間務めましたが、その組合を通じて、戦時色が強まった17年に「履物商も勤労奉仕せよ」との命が下り、私は1番最初に江東区北砂町の鋳物工場、次いで日本橋郵便局へ勤労奉仕に行くことになりました。
 郵便局での勤務は年齢によって3階級あり、20代〜30代は電報配達、30代〜40代の壮年は開函業務で、私はこの業務に就きました。朝8時に局へ出局し、9時きっかりに第1号便といって、兜町、茅場町、新川、越前堀、北新堀、南新堀、箱崎町、浜町、人形町、小網町、小舟町の11か所に31本あるポストの開函のため大きな袋を持って自転車で行きました。これは本職の人なら31本を45分で回って来るのですが、不慣れな私たち勤労奉仕の者は1時間かかってしまいます。ところが2号便が10時、3号便が11時に出るものですから、本職の人はその間15分の休憩がとれるのですが、我々素人は1分の休みもとれないのです。午後は1時から、赤塗の郵便自動車の助手席に乗って、今の31本を集めながら、さらに私の回っている31本の中に特定郵便局が3つ4つあり、そこへ行って白コウの速達便、赤コウの書留便それぞれの大きな包みを引きずって行って放り込むのです。そして1時間休憩して、3時からまた第2便を出すのです。これを半年間奉仕しました。もちろん奉仕ですから、一切の給料も食事も出ません。ある日、仕事中に大雨にあい、全身びしょ濡れになりましたが、ハガキを濡らしてはいけないと思い鞄を大事に保護したところ、翌日局長に呼ばれ、お褒めの言葉を頂戴した思い出もあります。お国のため、と必死だったのでしょう。

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