資料室
体験記-空襲体験-
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空襲体験
火炎が川を渡ってやってきた

中野 耕佑(なかの こうすけ)

 日本橋小網町は、関東大震災の時まで小網町一丁目〜四丁目及び小網仲町と5つの丁目があったが、区画整理で3つになり、現在では丁目がなくなった。空襲で罹災したのは、旧三丁目だけだった。それも直接の焼夷弾攻撃を受けたのではなく、隣の町からの飛び火である。
 私は当時の中学1年生で、学校は東京であったが、母と一緒に埼玉県鴻巣の母の実家の近くに疎開して、学校へは高崎線で列車通学していた。このため、罹災した3月9日夜から10日朝の様子は、10日の朝、鴻巣から小網町の家に駆けつけた時に父と兄から聞いた。
 私がその時見た我が家は、既に焼け落ちており、店先に積んであった炭やタドン、煉炭が焼け、まだ真っ赤になっていた。
 ところで、我が家を焼かれて避難した父と兄が家から持ち出したのは、仏壇のご本尊と先祖代々の位牌だけであった。それほどに、その時の火のまわりが速かったとのことである。
 夜半からの空襲は、日本橋川の対岸の茅場町や新川などに焼夷弾を集中的に投下したので、この地域は火災に包まれ大変な大火になった。だが、その日は、小網町側には落とされず、初めはそれこそ川向こうの火事で終わりそうだと、町の人たちもみんな思っていたようだ。
 いつもの日よりも、この晩は風はあったが、対岸の茅場町あたりの火災が、川幅30メートルもある日本橋川の川面を渡り、小網町をひとなめにするとはだれも考えなかった。ところが、B29からの焼夷弾投下も終わり、対岸の大火も盛りを越したかに見えた頃から、それまでの風が突風に変わり、火災が横に這うようになってきた。火の粉が川を渡って小網町に飛んできはじめても、「まさか」「大丈夫」という気持ちが強くあって、家財道具を持ち出してまでも避難しようという人はほとんどなかったようだ。

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