資料室
体験記-空襲体験-
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空襲体験
鉄筋のビルで焼けずにすんだ

中田 多嘉子(なかた たかこ)

 私は2月25日昼間の空襲から、3月10日の大空襲、そして4月4日と5月の爆撃まで、ずっと同じ所で体験した。
 私のところは「イーグル・ビル」といって鉄筋コンクリート5階建てを住居兼店舗にしていた。このビルは関東大震災後、東京市からの助成金で建てた本格的な耐震耐火建築で、このおかげで最後まで焼けずにすんだのだと思う。
 私の家は「イーグル」の商号で、大学ノートなどノート類の卸問屋だったが、紙製品が戦時統制になり、店員も徴用で1人もいなくなり、商売は開店休業同然だった。
 ビルの3階までが店舗で、私たち一家は、4階に祖父母、母とお手伝いさん、5階に、前年2月に生まれた長女紀子(主人は18年に出征していた)と私の2人が寝泊まりしていた。
 2月25日の昼間の空襲で、横山町から馬喰町一帯が相当焼けたが、ビルが浅草橋交差点、に面した角にあったこともあって、延焼を免れた。
 自分のことは忘れたが、この日、両国2番地の七条洋紙店が焼夷弾の直撃を受け、ご家族お2人がご他界という悲しい出来事ははっきり覚えている。
 七条洋紙店は、父が東京に出てきて初めて勤めたところで、その後独立してからも親戚同様に親しくさせていただいている。焼夷弾で全焼した後、ご一家のみなさんが行方不明というので、祖父母も私も心配した。社員の方々と焼跡を整理したところ、地下の防空壕の中で亡くなられていたことがわかった。この少し前に、先代が病気で亡くなられたばかりで、先代の奥様が遺骨をお抱きになったまま、お嬢さんと一緒に壕の中で発見された。
アッと言う間に火事になったので、外に逃げだせなかったということだった。
 現社長(ご子息 七條達一様)は兵隊に行っておられたが、戦地でこれを知られたら、どんなに悲しい思いをされたことか。だが、その頃は連絡もできない状況だった。

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