資料室
体験記-空襲体験-
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空襲体験
百余軒の貸家を失う

武山 善治郎(たけやま ぜんじろう)

 私の家は、大正13年に親の代からここ蛎殼町に移り住んで、傘の製造販売業を営み、今に至っている。
 私は、昭和15年12月1日に、東部52部隊歩兵第1連隊に召集され、北支、満州、インドネシアのスマトラ、そしてシンガポールと移動し、シンガポールで終戦を迎えた。だから、私は戦災を全く経験していない。
 また、父母も、昭和17年、私が出征してから1年半ぐらいで家業の傘製造販売業をたたんで、長男の住む岐阜に疎開していた。
 空き家になった母屋も人に貸していたが、当時、私の家は蛎殼町を中心にして100軒ほどの貸家を持っていた。このため、空襲による家族自体の被害は全くなく、また、空襲の様子も見ていないが、我が家から貸家まで、戦災での物的被害は大変なものだった。
 蛎殼町の戦災の模様は、復員してから、当時、町に残っていた人たちからいろいろ聞いているが、一人ひとりが大変な体験をしたらしい。
 復員してきて見た東京から想像もつくが、戦後、復興期のドサクサで受けた町の人たちの被害も大きい。
 戦災後、焼跡に直ぐバラックの小屋を建てて商売をしていた人もいたが、多くの人は年寄りや子供のためも考えて、身寄りを頼って疎開していた。その人たちの焼跡の土地に無断で家を建てられたり、居座られたりした被害者がかなりある。

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