資料室
体験記-空襲体験-
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空襲体験
目の前で焼夷弾が炸裂

岸浪 清七(きしなみ せいしち)

 私は、その当時、ここで銭湯(浴場業)をやっていた。この頃、近くの学校に高射砲を装備した警備隊が駐屯していたためか、このあたりは焼け残った。
 もっとも、学校のまわりは強制疎開で軒並み家が壊されて、私のところだけが、銭湯だから対象から洩れて残されたのかもしれない。
 その強制疎開で壊された家の板や柱などの木材を銭湯の燃料に貰えた。銭湯だから、その駐屯していた警備部隊のお偉いさんも風呂に入りに来ていたので、よく「おやじ、これを使え!」などと言って余分なものを持ってきてくれた。
 空襲は20年に入った頃から頻繁にあったが、3月9日の夜から10日の朝にかけての空襲はとにかく酷かった。ここ日本橋蛎殻町から両国あたりまで一望千里になったほどである。
 近所の明治座は、地下室が空襲時の避難場所になっていたので、この時も多くの人々が避難して来て、はみ出す者も出ていたが、いっぱい収容されたその避難者たちはこの地下室で全滅した。
 その時、私の友人・長田外次郎という警備団の班長もここで焼け死んでいるので、私は今でも、毎年3月10日の日にお参りを忘れないでしている。
 明治座の近くの浜町公園には、やはり高射砲の部隊があった。そこは、軍域になるから一般の人々は入れなかったが、もしそこに避難することができていれば、あの明治座の悲劇は起こらなかっただろうが、今となっては、もう何を言っても仕方がない。
 私のことを言えば、3月9日、当日の夜は我が家にずうっといた。もっとも、逃げる準備は、燃料を運ぶ大八車に夜具、食糧等を積んでおいたが、地域の班長をやっていたこともあって、そう簡単に逃げるわけにはいかなかった。

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