資料室
体験記-空襲体験-
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空襲体験
蛎殻町で焼かれ、広島で原爆被災

須磨 末野(すま すえの)

 3月10日の空襲の頃、私の家は、下の子が小学生で埼玉県の武蔵嵐山に学童疎開しており、主人は軍需工場の工場長として千葉の勝浦に行っており、あの日の空襲の時は、近所の人と一緒に避難した。主人は材木屋をやっていたが、軍需工場に動員されていたわけである。
 「空襲だ!」というので、大八車に荷物を乗せて、命からがら三越の方へ逃げた。まわりは火の海だったが、三越の近くで一夜を明かし、ともかく家に戻ってみようと帰ってきたが、途中、証券取引所が焼け残っていて、炊き出しの配給をしていたので、これを貰って朝御飯にした。炊き出しの御飯を食べ終わってから家の方へ行ったが、どこも焼け野原、我が家も完全に焼け落ちて、わずかに木材をおく林場(リンバ)の下の方がくすぶって残っていた。
 家が焼けてしまったので、今後のことを主人に相談しようとして勝浦に向かった。電車も動いていないので、仕方なく総武線の線路を歩きだしたところが、亀戸のガードのところまで来たところ通行止めにあった。
 なんだろうと思って見ていると、その近くで死体を火葬にしているところであった。そこへは、自動車や大八車で次々に焼死した人の死体が運ばれ、焼かれていた。全く「悲惨な光景」であった。結局、市川まで歩いて、なんとか電車に乗ることができて、ようやく勝浦までたどり着いた。
 主人と話をして、一応、広島市郊外の親戚を訪ねることにした。そのため、武蔵嵐山に学童疎開している下の子供を連れ戻したが、シラミが体中いっぱいで大変だった。
 鈴なりの東海道線にやっと乗り込み、ようやくのことで広島に着いた。

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