資料室
体験記-学童疎開体験-
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学童疎開体験
疎開先の方々の暖かい心に感謝

堀井 隆三郎(ほりい りゅうざぶろう)

 私が千代田国民学校の児童たちを引率して埼玉の疎開先へでかけた時には、『これはたいへんなことだ、再び東京へ帰ったり、自分の郷里へ帰ったりすることはあるまい』と思ったものです。
 子供たちは昭和19年の8月27日に東京を出発したのですが、疎開先の学寮のあった現在の「飯能市」は、当時は南高麗村(みなみこまむら)といいました。
 千代田国民学校では、学童集団疎開を実施する前に縁故疎開をうんと奨励したんです。あの頃、全校で1、100人くらいの児童がいたのですが、戦局がだんだん悪化してくるとともに、最終的に学校に残った児童は320〜330人くらいになっていました。その子たちを連れて学童集団疎開に行ったのです。
 疎開先の学寮は、飯能を中心とした5つの寺に分散されました。
 先ず、飯能の在の高萩の宝蔵寺には5年生の女子が主体、飯能の1つ手前の加治村の円照寺に4年生の男子、ここに千代田国民学校の疎開の本部がありました。南高麗村の下直竹の長光寺には4年生の女子と5年生の男子で、疎開当初は64、5人いたと記憶しています。5年生の男子が40人くらい、女子が20人くらいでした。それから名栗の入口にあった楞厳寺(りょうごんじ)に6年生の男子、名栗の奥の龍泉寺に6年生の女子。この楞厳寺と龍泉寺の疎開学童は最終学年の6年生でしたので、昭和20年の3月にみんな卒業してしまい、先生方は他の残ったお寺に配属されて行きました。

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