資料室
体験記-学童疎開体験-
目次へ戻る
学童疎開体験
当時の子供たちはたくましかった

長谷川 れい(はせがわ れい)

 月島第一国民学校は私の母校でもあります。そこへ新卒で赴任しました。
 戦争が激しくなり、3年生から6年生の児童99人の付添いとして疎開したのは、埼玉県秩父町の広見寺という大きなお寺でした。
 お寺では、先生3人(男性1人、女性2人、昭和20年4月に女子が1人増えました)それに寮母さん3人(地元の方2人と6年生の児童の姉)、用務員さん1人との生活でした。
 月島第一国民学校の集団疎開は、この広見寺を本部として、秩父町、高篠村、横瀬村の1町2村に入りました。秩父町では広見寺のほか天理教教会と公民道場、高篠村では湯屋旅館と常泉寺と新木公会堂の3か所、横瀬村では天理教母巣教会と長興寺の2か所で、合わせて8学寮に分散しました。児童数は1学寮に30人から50人、多いところでは100人を超し、合計417人でした。付添いの先生は1学寮に2人から3人でした。
 疎開期間は、昭和19年の8月28日から昭和20年10月24日までの1年余りでした。昭和20年3月6日には、各寮の6年修了児童合計で101人が帰京しました。私は残務整理のため20年11月末頃、遅れて帰京しました。
 疎開当初、児童たちは秩父第一国民学校へ通いました。秩父町でも他の学寮の児童は秩父第二国民学校へ通っていました。
 学校生活の中で暴力によるいじめはなかったのですが、疎開の子はおかゆを食べているんだろうと、会うと土地の子から「おかゆ!おかゆ!」といってからかわれたり、学校で使う教材の用意がすぐにできなかったりしたので、秩父第一国民学校からは2か月ぐらいで引き上げ、広見寺で勉強することになりました。

- 1 -

次のページへ

▲ページの先頭へ

お知らせ プライバシーポリシー 利用案内 リンク集
Copyright (c) Chuo City. All rights reserved.