映像ライブラリー
語り継ぐ戦争の記憶「体験者の声」
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タイトル 小学2年生が体験した昭和20年 名前 大芦 弘

 神田の佐久間町の母親の実家へ、最初、父親と自転車に乗っかって行ったんですよね、朝方。でも、いないので帰ってきて、すぐ母親とまた行ったんです、11時頃。秋葉原の駅を降りて、歩いてって、そこに防空壕が掘ってあるんですよ。それで母親がこれ見なさい。こうやって赤ん坊を抱えてお母さんがね、赤ん坊は白いんですけど、お母さんは真っ黒焦げで、すごくショックだったね。それで行っているうちに一番末っ子のおばさん、サチコさんがいたんですよ。ああ、いたいたって。そこで今度は焼け跡で何か探しているわけですね。それで私も一緒になって、要するに泥いじりみたいな感じでもって、こうやってたら、なんだか知らないけど、上がけすずみ状になっている釜の蓋、それでヒャッと見たら、なんかお米が立ってて、真っ黒になってて立ってるんですよ。なんだろって、おばさんはすぐわかったんですよ。「これ炊けちゃったんだわ。」って言って。あれは助かったらしいですよ。あの裏の小学校に避難していたんですよ、おばたちは。そこで塩とあれでおにぎり作って、みんなで食べたって言ったね、まわりの人と一緒に。

3月10日 東京大空襲
 
母親と一緒に寝てましたよ。あの当時は1階に寝てたかな、親父は3階に寝てて。夜中12時頃だと思うんだ。母親がね、「これは普段の飛行機の音と違うよ。」、「これは大変だ。」というのを、まず母親が私に言って、これは逃げなきゃいけないよってことで。低く飛んでね、家は3階建なんだけど、もうすぐそこ。煌々と照明灯が照らすから綺麗にくっきり見えてね、何機も何機もですよ、次から次へ。
 まず河岸行ったんですよ。河岸へ行ったら、石炭山がいっぱいあって、それがボーボー、ボーボー燃えてて、これはしょうがないって、それでその後、これじゃしょうがないって言って、銀座行こうって言ったんだ。歩きながら、パアーパアーってみんな焼夷弾が落ちてくるから。パアーってきて、フラフラって、こうユラユラしてね、そのうちにポーンって拡がってキラキラキラって来るのね。綺麗だなって見てた。幼かったから怖いとかそういうのは感じないけど、むしろお姉さん達にくっついて歩いてたから安心してたんだね。銀座へ向かったらね、万年橋から行けない。火がブワーって向こうから、歌舞伎座の方が燃えてて、戻って、本願寺のところへ来たら、あそこに兵隊さんが一応守ってたんで、行ったら防空壕へ入れてくれて朝まで、朝4時から5時頃まで。レイちゃんという人が家が焼けているかどうか見に行ったら「心配なかったよ。」、「良かったね。」「じゃあ帰ろう。」って言って。
 うちの親父と橋本さん夫婦と、となりに大貫さんが住んでて、その5人で行って、焼夷弾を最初、竹竿に藁のつなで「はたき」って言ってるけど、「はたき」でやってるんだけど、消えないんだって。だからしょうがないから、手掴みでみんな道路に捨てて消したんだって言ったよ。だから、あの12番地一角全部残ったんだから。うちの親父だとか橋本さんだとか大貫さんなんかが消し止めたから。お母さんがね、ごはん作ってくれた。おいしかったなあ、あれは。本当にホッとしたのと、良かったなあと思って。

栃木県佐野での疎開体験
 
佐野にはねえ、戦闘機の軍需工場があって、それでアメリカ軍が攻めてきて、それで帰りにね、田植えしている農家に対して、こうやって戦闘機がぐるぐるしてバババババッて、最初、私たちは知らないから、日本の戦闘機だと思って、手を振ったんだよね。そしたらバタバタバタってきたんで、びっくりして、私は肥やしの袋、南京袋っていうの、あれに潜って。もう一人いとこは、そばに川があったから、そこに飛び込んで。それは一番強烈に思っている。

疎開先から帰京
 
あの当時はみんな亡くなって、食べ物は無いし。母親が私連れて、八日市場、親父の戦友がいるとこなんですけど、そこでお米を分けてもらって、親の着物でお米に変えて、そうやって何とか、親はね、そうやって育ててくれたんだよ、我々を。

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